☆ 気と血についての私見 ☆
東洋医学の概念の、気血は、生命の営みに関わるものです。
そして、鍼(はり) 灸(きゅう) マッサージ治療を効果的に行うにあたり、重要なこととして、
不通則痛、通則不痛 という、古典の概念があります。
この言葉の意味するところは、気血の通りが悪い所は痛み、 気血が、正常に通じれば、痛みは、消失するというものです。
気は陽の性質を持ち、血は陰の性質を持つ。大体それくらいのことは、東洋医学の古典の言葉として記されていますが、なぜ、気が陽で、なぜ、血が陰なのか…。このことについては、誰も解釈してないと思います。
(同業者や、漢方薬を扱っていらっしゃる方は、この言葉をよく引用していらっしゃいますが、東洋医学の古典の言葉そのものを引用したりしているだけと見受けられます。
ことに最近、テレビCMでこの言葉が使われていますが、ただ人目を引くためだけに使われているだけにしか見えません。 ただ、効用があるかのように見せかけて薬を売るという、実に情けない姿勢だと思います)
アタシ的な気血の概念は、生体内電流に関わる現象を気血と呼び習わした。
気血の概念が出来たとき(古典の概念を“上”から受信した人たちは、その当時、電流という言葉を知らず、当然“上”からの荷電粒子(天人相関、天人合一は、“上”との関連を示した言葉です)とか、
錯体(体液中の荷電粒子、イオン)、
そして、生体内電流とか、
身体内の磁束とか、
電磁誘導とか、圧電、誘電とか、
コンデンサーやコイル、トランジスターの用語も無く、
ただ、気や血が鬱帯するとか、通りが悪いとかの表現しかなかったと思います。
以下、気血についての私見を述べていきます
気の概念に対する私見
まず、古典の言葉を引用します。
人は天地の気をもって生き、四時の法(生長化収蔵の規律)成る。
(素問宝命全形論)
気、和して而して生じ、津液相成り、神、すなわち自ずから生ず
(素問六節臓象論)
万物は陰と陽とをもち、沖気がこれらを調和する。
(老子道徳経)
気が変化して形が生じ、形が変化して生命が生じる。
(莊子)
天地が気を合わせたものを、人間と呼ぶ。
(素問宝命全形論)
気=肉体内の電流=神経系と骨で発振される身体磁場=オーラ=心=永遠の実在である意識の創造の作用。
そして、生体内電流の消失は、死と認識されうる。肉体と心(靈)は人の構成要素であり、心(靈)の発現や動きが、気であり、気が肉体の“創造”を支配する。
それが、血と、津液(しんえき)で、東洋医学では、肉体内の水に含まれる錯体としての荷電粒子を、そう呼び習わしたとの私見を持っています。
そして、生命の発現は、天人相関。
“上”と“下”。人と神の概念や認識。人(日止、霊止)と“創造”の“主(ヌシ)”。
そして、神の“思惑の顕現”=現象化は、生命(生きる使命=存在理由)の発現と、進化(霊的成長、神格化に向かうこと)である。進化は、霊的成長であり、オーラの拡大でもあり、オーラの発振、発信は、生体内電流の現象であり、心(靈)の発現と動きと同義でもあり、人(日止、霊止)のオーラが“創造”の“主(ヌシ)”に近くなっていくことを、
“天人相関”と呼び習わしたと解釈しています。
血の概念に対する私見
血脈和せば、精神すなわち居す。
(霊枢平人絶穀)
血気は、人の神、謹みて養わざるべからず。
(素問八正神明論)
血は、永遠の実在である、意識の創造の作用と同義であり、それは、心(靈)の現象化で、肉体に於いては、新陳代謝と、生体内電流の強化による高レベルの細胞の“創造”と、生命(生きる使命=存在理由)の維持。
余談ですが、人という字は、丿部(へつぶ)(神の思惑の顕現)と乚部(いんぶ)(人の思惑の顕現)で構成され、“上”(人(日止、霊止)の霊的成長を望む存在)からの荷電粒子を肉体の磁性が反応し、心(靈)は変容していく。
そして変容した心(靈)は、肉体と心(靈)の作り変わりを行っていく。
それが“気血栄衛(營)”(取り込んだ振動で心(靈)と体が創り変わる)であり、そして人は、神から託された使命として、“日止、霊止”(日を止める、霊を止めるの意味)にならねばならない。
話を戻し、物質である肉体を構成する事、それに伴い心(靈)が“上”に向かっていくこと。それは人(日止、霊止)自体の“創造”は、気の作用で創られ、血と津液が、関与しています。